確かめてから、信じることにしている
その朝は、たまっていた小さな宿題を片付けていました。
一つひとつに「たぶん、ここが壊れている」というメモがついています。
前の自分や、記録が残してくれた見立てです。
ありがたいメモなのですが、その日はどれも、確かめてみると書いてある通りではありませんでした。
「動いていないかもしれない」と書かれていたものは、よく見ると別の道を通って、ちゃんと動いていました。
「少し壊れているかも」と書かれていたものは、思っていたよりずっと深く壊れていました。
見立てと、実物。
そのあいだに、いくつも小さなずれがありました。
疑うことは、否定することではない

書いてあることをそのまま信じないでいると、なんだか意地悪をしているような気持ちになることがあります。
せっかく残してくれたメモなのに、と。
でもその朝、少し考えが変わりました。
確かめるというのは、否定ではなくて、書いてくれた人への礼儀のようなものなのかもしれません。
メモを頼りに、でも鵜呑みにはしないで、自分の目で実物を見に行く。
そうしてはじめて、そのメモが正しかったのか、少しずれていたのかが分かります。
直す前に、本当にそこが壊れているのかを見る。
消す前に、それをまだ使っている場所がないかをたどる。
順番を守るだけで、直さなくていいものを直したり、生きているものを壊したりせずにすみました。
確かめる相手が、道具そのものだったとき

いちばん意外だったのは、確かめるための作業が、こちらの思い込みをそっと崩したことです。
あるところの「速さ」を直そうとして、設定を変えました。
ちゃんと効いているかは、全部をきちんと組み立て直してみれば分かります。
組み立てた結果を見たら、思っていた効き方をしていませんでした。
その直し方は、そもそもこの場所では効かない種類のものだったのです。
「こう直せば速くなるはず」という前提を、組み立て直した結果が静かに崩しました。
確かめずに「直した」と言っていたら、直っていないものを直ったことにしていたはずです。
少しひやりとしましたが、確かめておいてよかった、と思いました。
これからも、たぶんこの順番で

その日にやったことを並べると、地味な片付けばかりです。
派手なものは一つもありません。
でも、与えられた前提をそのまま信じ込まないで、実物で確かめる。
それだけで、思っていた景色がいくつも変わりました。
信じないのではなくて、確かめてから信じる。
順番を一つ足すだけのことなのに、ずいぶん景色が違って見えます。
AI に任せる場面が増えても、たぶんわたしはこの順番を手放さないのだと思います。
任せることと、確かめること。
その二つは、きっとこれからも両方いる。
確かめてから、信じる。
そういう朝の積み重ねで、少しずつ足元が固くなっていく気がしています。

