「動きました」と言われても、私の目には何も見えていなかった
今日は小さな気づきがありました。
AI と一緒に作業をしていたとき、「動きました」と言われても、私には何が起きているのか全然わからなかった、という話です。
ターミナルの「動きました」が、私には見えなかった

最近、AI を相棒に、ちょっとしたツールを作ってもらう作業をしています。
私が「こういうものが欲しい」と伝えると、AI が実際の手を動かしてくれる。
私は横で画面を眺めているだけ、という関係です。
ターミナルという、黒い画面に文字がずらずら流れる場所で、AI は淡々と作業を進めていました。
私にとっては、だいたい呪文みたいなものです。
読めないわけじゃないけれど、流れていく速度についていけない。
しばらくして、AI が言いました。
「動きました。
テストも通りました」
うーん、と私は困りました。
たぶん、動いたんだと思います。
AI が「動きました」と言っているんだから、そうなんでしょう。
でも、私の目には、何がどう動いたのか、ほとんど何も見えていなかったんです。
ターミナルの中には、私の読めない文字列がいっぱい流れていました。
どこかのファイルに結果が保存されたらしいのですが、そのファイルを開いても、おそらく私には意味がわかりません。
正直に、こう返しました。
「いいけど、ターミナルでやってると何やってるか全くわからないね」
別の形で見せてもらって、景色が見えた

AI は、ちょっと間をおいてから、作業の結果を別の形で見せ直してくれました。
作ってもらったのは、台本を音声にする前の下準備をするツールでした。
AI は、台本を読み込んで、8枚のスライドに分けて、それぞれの見出しを表にして、固有名詞の読み方を変換して、最終的にナレーションが2,500文字になった、と丁寧に並べて見せてくれました。
そこでようやく、私の目にも「動いている景色」が見えました。
不思議な気分でした。
同じ「動いた」という言葉を聞いていたのに、最初の「動きました」と、表を見せてもらった後の「動きました」では、私の頭の中に広がる景色がまったく違ったからです。
最初は、ただの文字列でした。
二度目は、ちゃんと絵がありました。
言葉って、それ自体には意味がほとんどなくて、聞いた人の頭の中に絵が描けて初めて、意味になるんだな、と思いました。
「わからない」と言うのは、負けじゃない

AI との作業も、これに似ていました。
AI は、何が起きたかを全部知っています。
どの行を書いて、どこでエラーが出て、どう直して、どういう結果になったか。
全部、見えています。
だから「動きました」で十分だと思ってしまう。
でも、私には見えていない。
その差を埋めるには、私のほうから「わからない」と言う必要がありました。
「わからない」と言うのは、負けじゃないんですね。 言葉にして伝えて初めて、相手はもう一度、別の形で見せ直してくれる。
私は長い間、「わからない」と言うのが、ちょっと苦手でした。
恥ずかしいし、相手に悪い気もするし、流しておけば会話は進む。
そう思っていました。
でも、流したままの「わかったふり」は、あとで必ず自分に返ってきます。
本当に必要なことを、後から誰かに聞き直したり、間違えてしまったり。
だから最近は、わからないと思ったら、その場で「わからない」と言うように心がけています。
今日、AI に「わからない」と伝えたら、AI はすぐに表を作り直してくれました。
私が納得できる形で、もう一度、景色を見せてくれた。
人と人の会話でも、きっと同じです。
わからないと言えば、相手は言い方を変えてくれる。
言い方を変えてくれた分、私の頭の中にも、より鮮明な絵が描けるようになる。
わからないと言えるのは、相手との関係が安心しているからでもあるし、相手にもう一度チャンスをあげているからでもある。
そう思うと、ちょっと勇気がいる「わからない」も、悪いものじゃないなと思います。
「動きました」の向こうに、相手の景色がある

暮らしの中には、毎日たくさんの「動きました」「できました」「終わりました」があります。
家族から、友達から、仕事仲間から、そして今は AI からも。
その言葉の向こうに、相手にしか見えていない景色があるんだということを、忘れないでいたい。
そして、見えないときは、ちゃんと「見えないよ」と言える私でいたい。
今日の夕方、AI の作業は無事に終わっていました。
小さなツールが1つ、ちゃんと動く状態になった。
最終的に表で見せてもらったときの「あ、なるほどね」という感覚だけが、はっきりと残っています。
「動きました」を本当に受け取るには、ちょっとしたやり取りが要る。
その、ちょっとしたやり取りを惜しまない毎日にしていきたいな、と思った一日でした。

