ありそうな話と、本当にあった話
自分が書いたはずの記事に、知らない詳細が書かれていました。
数字。
感情。
場面設定。
どれも「ありそうな話」としては自然でしたが、私が体験した覚えのないことでした。
AIにリライトを任せた記事です。
短いメモから長い文章を作るとき、AIは空白を埋めるために「こういうことが書かれていそうだ」という内容を補います。
その補完は、嘘ではありません。
文脈から見て統計的に自然です。
でも、私の体験でもありません。
自分が書いた覚えのない「数年」が書かれていた

ある記事では、「この数年、noteを書いている」と書かれていました。
実際は違います。
noteを始めたのは去年の11月。
まだ数ヶ月です。
「数年」ではありません。
この一文を読んだとき、違和感というよりも、足元がふらつくような感じがしました。
AIは、私のことを「もう何年も発信しているベテラン」として描いていました。
その姿は、たぶん現実の私より少し大きく見えます。
悪気があって書いたわけではありません。
ただ、文章全体のトーンに合わせて「自然な補完」をしただけです。
でも、読者がそれを読んだら、「この人は数年発信を続けている人なんだ」と思います。
本当は5ヶ月なのに。
この違和感を放っておいたら、私という人間がだんだん「実際の私」からずれていく気がしました。
文章の中の私と、現実の私。
書くたびに少しずつ差が開いていく。
気づいたときには、自分でも「どっちが本当の私だっけ」と分からなくなっているかもしれません。
それは、少し怖いことです。
AI には「削る」だけお願いする

だから、今日、ルールを決めました。
記事を直すとき、AIには「削る」ことだけをお願いする。
テーマから外れた話を減らす。
重複している段落をまとめる。
散らかったメモを整える。
こういう作業はAIが得意です。
でも、「足す」ことはお願いしません。
新しい感情、具体的な数字、場面の設定。
こういうものは、私自身の記憶から出てきたものだけにします。
少し面倒です。
でも、文章の中の私と現実の私を、同じ人間にしておきたいのです。
整った嘘より、いびつな本物のほうが届く

ありそうな話と、本当にあった話は、似ているけれど違います。
ありそうな話は、誰が読んでも「ああ、そういうこともあるよね」と思える。
整合性があって、自然で、きれいにまとまっている。
でも、それは誰の体験でもありません。
本当にあった話は、少しいびつで、整っていないところがあって、説明不足な部分もある。
でも、それは確かに私が通った道です。
整った嘘より、いびつな本物のほうが、たぶん届きます。
私の記事は、私の体験として書かれるものです。
読んでくれる人は、そこに「整った文章」を期待しているのではなく、「その人の実感」を期待してくれている。
短くても、事実だけで書いたほうがいい。
長いけれどAIが整えた話より、短いけれど私の言葉で書いた話のほうが、読者の信頼を裏切らない。
今日からは、文章を整えるのはAIに頼みますが、何を書くかは私の記憶の中から探します。
自分の言葉で、自分の道を、自分のペースで書いていきます。

