【実録】婚約破棄された私が歩んだ『自由』への道のり〜未婚の母、10年の軌跡〜

【実録】婚約破棄された私が歩んだ『自由』への道のり〜未婚の母、10年の軌跡〜
kanakuzu
かなえ
かなえ

こんにちは。今日は私の人生で最も大きな転機となった、婚約破棄から始まる10年間の物語を少しだけお話しします。

辛く苦しい時期もありましたが、今振り返ると、あの日の選択が今の「自由な私」を作ってくれたと胸を張って言えます。

『普通』の幸せを求めていた頃

私が彼と結婚を考え始めたのは20代後半のこと。
周りの友人はどんどん結婚してベビーラッシュ真っ只中。
親や親戚からも「結婚はまだ?」と顔を合わせるたびに聞かれ、正直うんざりしていました。

3年付き合った彼と「そろそろ結婚しようか」と自然な流れで話が進み、式場を回ったり、結婚情報誌を見たり。
「子どもは早く欲しいね」なんて話しながら、未来に胸を膨らませていました。

でも完全に安心できていたわけではありません。

彼は長男で、結婚したら祖父母・両親・家事手伝いの妹との同居が前提
それに合わせていつのまにか家の建て替えも決定されていました。
彼の祖父母と両親の将来の介護も視野に入れなければならず、少し不安はありました。

けれど、それが『普通の幸せ』なのだと思っていました。

突然の婚約破棄と妊娠発覚

その日は突然訪れました。彼の母親から『反対』の意向が示されたのです。

私たちはなんとか理解してもらおうと話し合いを続けていた矢先、妊娠が発覚します。
一度は結婚に向けて話が進み始めましたが、彼の家に呼び出された日のことは忘れられません。

彼の母親は私に向かって「しつけし直す」と言い放ち、その間、彼も彼の父親も黙ったまま。

私はその瞬間、「この人たちと一緒に暮らすのは無理だ」と直感しました。

決断の時

両家での話し合いの場所は、皮肉にも私たちが結婚式を予定していたホテルの会食会場でした。

彼の母親は私の両親に向かって「お嬢さんの将来のためにも堕胎した方がいい」と言いました。

その時、私は言いました。「産んで、一人で育てます」

彼の父親からは「ちゃんと責任は取らせます」という言葉で話し合いは終わりましたが、
私の人生の新たな章が始まったのはその瞬間でした。

帰り道、車の中で両親は沈黙していました。
その夜、リビングでお茶を飲みながら、ついに両親が口を開きました。

「本当に一人で育てるつもり?今回は子どもをあきらめた方がいいんじゃないか」

父の声は心配に満ちていました。母も続けます。

「一人では育てられないよ。将来のことを考えて…」

両親の目には心配と不安が浮かんでいました。
確かに彼らの言うことはもっともでした。でも、私の心は決まっていました。

「お父さん、お母さん、私のことを心配してくれているのはわかってる。ありがとう」

深呼吸をして続けました。

「でも、私もこの子を幸せにしたいの。堕胎して一生罪悪感を抱えながら生きるより、この子を背負って生きていきたい。私にはそれができると思う」

涙ぐみながら言い切った私を見て、両親は何も言いませんでした。
ただ、父が小さく頷いただけ。それ以来、彼らは私の決断を尊重してくれました。

時には励まし、時には手を差し伸べてくれる、最高の味方になってくれたのです。

一人で子どもを育てられるのか

本当に一人で育てられるのか不安で仕方なかったです。
でも同時に『私なら幸せにできる』という決意も固まっていました。

しかし、当時の私の通帳残高は10万円以下。
このことが原因で地方に飛ばされてしまった彼の先輩や上司からマタハラを受け、精神的に追い詰められていました。

派遣社員だった私には育休もなく、収入の見通しが立ちませんでした。

「なんとかしなければ、なんでもいいから」と藁にもすがる思いで情報収集を必死に行う中、『傷病手当金』という制度を知りました。

この制度について私の上司に相談したところ、上司は制度を知らなかったものの、会社と掛け合って受給方法のアドバイスや受給するために必要な期間の確保のため、雇用期間の調整までしてくれました。本当に本当に助けられました。

おかげで心療内科でうつ病の診断を受け、傷病手当金を受給しながら日々を過ごすことができました。

それでも金銭的な不安は消えませんでした。

母になる

妊娠後期に羊水過少症と診断され1ヶ月の入院生活を経て、無事に出産。妊娠前になんとなく入っていた保険金が入り、一息つくことができました。

出産後、弁護士との相談を経て調停に臨み、1年かけて認知と婚約破棄の慰謝料、そして18歳までの養育費を勝ち取りました。

慰謝料が入ったことで経済的にも心理的にも少し安心感が生まれました。

再スタートへの模索

出産後に傷病手当金を再開し、その間にも将来のための情報収集を怠りませんでした。

「手に職をつけなければ」と堅実さを求めて地域の3D CAD講座に参加したり、華やかさを求めてネイリストの資格を取得したりしましたが、どれもしっくりこなかったんです。

傷病手当金が終わり、失業保険に切り替えてハローワークに通い始めました。

そこでWebデザインの職業訓練校の情報をたまたま見つけ、最終募集の1枠に11人が応募する中、運良く合格。2年間学ぶことになりました。

就職活動の壁

卒業と同時に就職活動を始めましたが、どこも採用に至りませんでした。

面接では必ず「お子さんが熱を出した時はどうされますか?」と聞かれ、理解はできても心が折れそうになりました。

『小さい子どもがいるシングルマザー』の就職の壁は思った以上に高く厚いものでした。

思い切った挑戦 – 海外への一歩

就職が決まらない中、イヤなことを言われ、イヤな顔をされ、
「なんでこんな思いしてまでやりたくもないことやらないといけないの」と日々悩んでいました。

慰謝料で余裕があったこともあり、思い切って「親子留学」を決断。
フィリピンのセブ島に4ヶ月滞在しました。

そこで気づいたんです。『日本である必要はない』と。

試しに仕事を探してみると、驚くことに1社であっさり決まりました。
留学期間を終えて日本に帰国し、保育所を退所、車を売り、大切な人に会って、わずか2週間後にはセブに戻りました。

最初はインターンからスタートしましたが、すぐに正社員として雇用され、
セブ島での新しい生活が始まりました。

今、自由に生きている私

コロナの影響で日本に戻ることになりましたが、リモートワークで働き続けています。
本業とは別に副業で安定して稼ぎ、余裕資金で投資をしています。

婚約破棄から10年が経った今、金銭的な不安もほとんどなく、自立した生活を送れています。

あの日、『一人で育てる』と決断した自分を誇りに思います。

振り返って思うこと

当時は世界が終わったような絶望感でいっぱいでした。
でも今思えば、あの婚約破棄が私を『自由』にしてくれたのかもしれません。

もし結婚していたら、私は自分の意思で動くことができない環境に置かれていたでしょう。

苦しい時期もありましたが、一人で子どもを育てながら、自分の力で人生を切り開いてきた10年間。
この経験が今の「自由な私」を作り上げたのだと感じています。

未来は誰にも分かりません。
でも、どんな困難が待っていても、自分の力で乗り越えていけると信じています。
私の経験が、何かの岐路に立っている方の小さなヒントになれば嬉しいです。。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!

少し長くなりましたが、10年前、絶望の淵にいた私からのメッセージでした。
人生、思わぬ方向に進むこともありますが、その先には思いがけない『幸せ』が待っているかもしれません。

もし今、不安な状況にいる方がいたら、ぜひ深呼吸して周りを見てみてください。
見えないだけで、支えになるものは意外と近くにあったりします。

このブログでは、これからも私の経験から学んだことをお届けしていきます。
少しでもお役に立てたら嬉しいです♪

また次回の記事でお会いしましょう!

ABOUT ME
かなえ
かなえ
マザコン彼氏に婚約破棄された未婚の母
10年を経て経済的にも自立し、節目としてこれまで経験したこと、得たことを発信します♪
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